離婚のとき「養育費は月5万円」と口約束した。友人に100万円貸すとき、ノートの切れ端に借用書を書いてもらった。——これらの約束は、法律上は有効です。契約は口頭でも成立するというのが民法の原則だからです。
では、なぜわざわざ「公正証書」という仰々しい書面を作る人がいるのでしょうか。答えは、約束が破られた後の世界がまったく違うからです。
公正証書とは何か:私文書との決定的な差
公正証書は、法務大臣に任命された公証人が、公証役場で作成する公文書です。公証人の多くは裁判官や検察官などを長く務めた法律実務家で、当事者の本人確認をし、内容の適法性を確認したうえで証書を作成します。原本は公証役場に長期間保管されるため、紛失・偽造・改ざんの主張が事実上封じられます。
しかし、公正証書の真価は別のところにあります。金銭の支払いを約束する公正証書に「支払いを怠ったときは直ちに強制執行に服する」という一文——執行認諾文言——を入れておくと、約束が破られた場合、裁判を起こして判決を取ることなく、いきなり相手の給与や預金の差押えを申し立てられるのです。
通常、強制執行には確定判決などの「債務名義」が必要で、それを得るには訴訟という時間のかかる関門があります。執行認諾文言付き公正証書は、この関門を最初から通過済みの状態を作る文書だといえます。
ただし限界も正確に知っておきましょう。この強制執行の効力が及ぶのは金銭の支払い(および有価証券等の給付)に限られます。「不倫相手と会わない」「建物を明け渡す」といった約束は、公正証書にしても直接の強制執行はできません。
場面別の使い分け
離婚:養育費の支払いを守る仕組みとして
離婚時の取り決め(養育費、財産分与、慰謝料など)を公正証書(離婚給付等契約公正証書)にする最大の目的は、養育費の不払いに備えることです。執行認諾文言付きにしておけば、不払い時に元配偶者の給与を差し押さえられます。しかも養育費などの扶養義務に基づく債権には執行上の優遇があり、通常の債権では手取りの4分の1までとされる給与差押えの上限が、2分の1まで認められます。さらに、一度差押えをすれば将来の分まで継続的に取り立てられる仕組みも用意されています。
口約束や念書だけの場合、不払いのたびに調停や訴訟から始めることになります。この差は、支払いが十数年に及ぶ養育費において決定的です。
金銭の貸し借り:借用書の最上位互換として
個人間の貸金を公正証書(金銭消費貸借契約公正証書)にすると、「借りていない」「金額が違う」という言い逃れの余地がほぼなくなり、執行認諾文言により不払い時は即座に執行へ進めます。貸す金額が大きい場合や、返済が長期の分割になる場合には、検討する価値が十分あります。
遺言:家庭裁判所の検認がいらない遺言として
公正証書遺言は、公証人が遺言者から内容を聞き取って作成する遺言で、証人2名の立会いが必要です。自分で書く自筆証書遺言と比べた利点は、方式の不備で無効になるリスクが極めて小さいこと、原本が公証役場に保管され隠匿や改ざんの余地がないこと、そして相続開始後に家庭裁判所の検認手続きが不要なことです。遺言の存在は、全国の公証役場で検索できる遺言検索システムによって相続人が照会できます。
作成の手順と費用の考え方
公正証書は、思い立ったその日に窓口で作れるものではありません。おおまかな流れは次のとおりです。
- 当事者間で合意内容を固める(ここが最も重要な工程です)
- 最寄りの公証役場に連絡し、内容を伝えて必要書類の案内を受ける
- 本人確認書類、印鑑登録証明書、合意内容に関する資料(離婚なら戸籍、貸金なら金額や返済条件のメモ等)を準備
- 公証人が証書の案文を作成し、事前に確認
- 作成当日、原則として当事者双方が公証役場に出向き、内容の読み聞かせ・確認のうえ署名押印
公証人手数料は法令で定められており、証書に記載する目的の価額(貸す金額、養育費の総額など)に応じて段階的に決まります。数万円程度で収まることが多いものの、金額や内容によって変わるため、事前に公証役場へ見積もりを確認するのが確実です。公証役場は全国にあり、どの役場でも作成できます。
公証人は「あなたの味方」ではないという注意点
見落とされがちな点をひとつ。公証人は中立の立場であり、どちらか一方に有利な条件を提案したり、「この養育費の額は相場より低いですよ」と助言したりする立場にはありません。持ち込まれた合意内容が適法であれば、その内容で証書を作ります。
つまり、合意内容そのものが自分に不利でないかの検討は、公証役場に行く前に済ませておく必要があるのです。離婚条件であれば財産分与や年金分割の見落とし、貸金であれば利息や期限の利益喪失条項の設計など、内容の適否こそが公正証書の価値を決めます。条件面に少しでも不安があれば、案文を固める前に離婚や金銭問題の取扱いが多い弁護士に相談することをおすすめします。弁護士を検索で地域と分野から探すことができ、相談費用の目安は費用相場で確認できます。
公正証書は、約束を「破られにくく、破られても回収できる」形に変える道具です。相手との関係が良好な今だからこそ作れる——この逆説こそが、公正証書という制度のいちばんの本質かもしれません。