ある朝、見慣れない郵便が届きます。「内容証明郵便」と書かれた封筒。開くと、取引先からの損害賠償請求。納品物の欠陥で損害が出たので300万円を支払え、期限は2週間以内、と書かれている――。
個人事業主にとって、このシナリオが法人経営者と決定的に違う点が一つあります。それは、事業上の債務と個人の財産の間に、法律上の壁が存在しないことです。株式会社であれば、会社の債務は原則として会社の財産で責任を負い、経営者個人の財産には(保証していない限り)及びません。個人事業主にはこの仕切りがなく、事業で負った賠償責任は、事業用口座も個人の預金も、理屈のうえでは自宅も、区別なく引当てになります。
だからこそ、請求を受けたときの対応の巧拙が、生活そのものに直結します。この記事では、時系列に沿って「何をすべきか」「何をしてはいけないか」を整理します。
最初の1週間:やってはいけないことから確認する
請求書面が届いた直後は、正しい行動より先に「典型的な失敗」を避けることが重要です。
- 放置しない。内容証明自体に法的強制力はありませんが、無視を続けると相手は訴訟に進みます。訴状まで放置すると、欠席のまま相手の言い分どおりの判決(いわゆる欠席判決)が出て、争う機会を失います
- 慌てて「すみません、払います」と言わない。電話やメールでの安易な謝罪・支払約束は、後で「債務を認めた」と主張される材料になり得ます。事実関係を認める発言と、道義的なお詫びは分けて考える必要があります
- 書面・データを捨てない。契約書、メール、納品記録、やり取りの履歴は、あなたを守る証拠にも、不利な証拠にもなります。いずれにせよ保全が先です
- その場で減額交渉を始めない。金額の話を先にすると、「支払義務があること自体は争わない」という前提が既成事実化しがちです
そのうえで、最初の1週間でやるべきことは次の3つです。
- 請求の根拠を読み解く。契約違反(債務不履行)なのか、事故など契約外の責任(不法行為)なのか。契約書のどの条項に基づく主張なのか。損害額の内訳と証拠は示されているか
- 加入している保険を棚卸しする。ここが最大の見落としポイントです(後述)
- 相談先を決める。金額が大きい、事実関係に争いがある、相手に弁護士が付いている――どれか一つでも当てはまるなら、弁護士への相談を検討するタイミングです
保険の確認:請求額より先に「使える保険」を探す
個人事業主が意外と忘れているのが、賠償責任保険の存在です。
- 製造・販売した物が原因の事故ならPL保険(生産物賠償責任保険)
- 業務中の事故で他人にケガをさせた・物を壊したなら施設賠償・業務遂行中の賠償責任保険
- 納品したシステムやデザインの欠陥、情報漏えいならIT業務向け・サイバー保険や業務過誤への保険
- 商工会議所・業界団体経由の団体保険に入っていた、というケースも珍しくありません
該当しそうな保険があれば、示談や支払いをする前に保険会社へ連絡してください。保険会社の承認を得ずに勝手に示談すると、保険金が支払われないおそれがあります。順番を間違えると、使えたはずの保険が使えなくなります。
支払義務は本当にあるのか:争える余地の見つけ方
請求されたら払うしかない、わけではありません。弁護士が実際に検討するのは、たとえば次のような点です。
- 因果関係:相手の損害は、本当にこちらのミスが原因か。別の要因はないか
- 損害額の妥当性:請求額に根拠資料があるか。「逸失利益」として過大に積まれていないか
- 相手側の落ち度(過失相殺):相手の指示ミスや確認不足が損害の拡大に寄与していないか
- 契約上の責任限定:契約書に賠償額の上限条項(例:報酬額を上限とする)や免責条項がないか。フリーランスの業務委託契約には、こうした条項が入っていることがよくあります
- 時効:不法行為に基づく請求は、原則として損害と加害者を知った時から3年(人の生命・身体の侵害は5年)で時効にかかります。古い話を蒸し返されている場合は検討の余地があります
全額の支払義務が認められるケースでも、これらの検討を経て減額の余地が見つかることは珍しくありません。逆に、こちらに明らかな非があるなら、早期に妥当な金額で和解して紛争を終わらせるほうが、時間・費用・精神面のコストを考えれば合理的なこともあります。弁護士は「戦う」ためだけでなく、「妥当な着地点を見極める」ために使う専門家です。
交渉フェーズ:回答書の出し方で流れが決まる
内容証明への返答は、口頭ではなく書面(回答書)で行うのが基本です。ここで弁護士に依頼した場合、回答書は弁護士名義で発送され、以後の窓口も弁護士になります。これには実務上の効果が二つあります。一つは、相手からの直接の督促電話が止まり、事業と生活の平穏を取り戻せること。もう一つは、「こちらは法的な検討を済ませて対応している」というメッセージになり、根拠の弱い過大請求であれば相手がトーンダウンすることも珍しくない、ということです。
自分で回答書を書く場合は、認める事実と争う事実を明確に分け、支払義務については安易に認めない表現にとどめるのが基本です。分割払いを持ちかける場合も、いきなり具体額を提示するのではなく、まず損害の根拠資料の開示を求める、という順番があります。
また、従業員やアルバイトのミスが原因で事業主が請求されるケース(使用者責任)では、事業主が賠償したうえで従業員本人に負担を求められる範囲は、判例上かなり限定される傾向にあります。「ミスをした本人に全額請求すればよい」という見立ては通用しにくい、という点も知っておきたいところです。
訴状が届いたら:期限のある世界に入る
交渉で決着せず訴訟になると、裁判所から訴状と呼出状が届きます。ここからは期限が明確な世界です。指定された期日までに答弁書を出さず、期日にも出頭しないと、相手の主張をすべて認めたものと扱われて敗訴判決が出るおそれがあります。
判決が確定すると、相手は強制執行(差押え)に進めます。個人事業主にとって知っておきたいのは差押えの範囲です。
- 給与所得者の給与は原則4分の1までしか差し押さえられないという保護がありますが、事業者の売掛金にはこの制限がなく、原則として全額差押えの対象になり得ます。主要取引先への売掛金を差し押さえられると、資金繰りと信用の両方に打撃を受けます
- 生活に欠かせない家財や一定額の現金など、法律上差押えが禁止された財産はありますが、事業用資産や預金は基本的に対象です
なお、「請求されそうだから財産を配偶者名義に移す」といった行為は、詐害行為として取り消されたり、悪質な場合は刑事責任(強制執行妨害)を問われたりするおそれがあります。追い詰められたときほど、やってはいけない選択肢です。
それでも払いきれないとき
賠償額が資力を大きく超える場合、分割払いの和解交渉のほか、最終手段として債務整理(個人再生・自己破産)という制度があります。破産は事業の終わりを意味するとは限らず、破産後に再スタートを切る事業者もいます。ただし、悪意で加えた不法行為に基づく賠償責任など、破産しても免責されない債務があることには注意が必要です。ここまで来る前に、早い段階で全体像を見立ててもらうことが、選択肢を残すことにつながります。
相談のタイミングと探し方
「弁護士に相談するほどの話か分からない」という段階でも、初回相談だけ使って見立てをもらう価値はあります。多くの自治体や弁護士会が無料・低額の法律相談を実施していますし、事務所の初回相談で方針と概算費用を聞いてから依頼を判断することもできます。費用の目安は費用相場にまとめています。
探す際は、損害賠償・企業間紛争の取扱い実績がある弁護士を検索し、可能なら複数の候補を比較してください。実際に依頼した人の声は口コミ一覧も参考になります。内容証明が届いてから訴訟までは、思っているより時間がありません。手元の書面を持って、早めに動くことが最大の防御です。